皮肉

大学院時代の先輩が数年前に既に亡くなっていたことを知った。
職場からスクーターで帰宅途中に事故死されたらしい。


研究職は不安定で将来が不安だという理由から、先輩は研究室には残らずに安定した公務員を選択した。
そしてその安定した職場で先輩は将来をなくしてしまった。


こんなことになるのなら、先輩はもっと羽目を外して生きてもよかったのにと思う。
好きな研究に邁進していれば、職場からの帰路で死んでしまうことはなかったのだから。
もちろん「事故死するかもしれないから将来の計画なんて立てずに行動しろ」と言いたいわけではない。
全ての偶然を考慮して将来を考えることなんて不可能なのだから、私の思いはただの言いがかりに過ぎない。


ただ私は悔しいのである。そして同時に恐ろしいのである。
好きなことをする対価に安定を求めたのに、先輩は好きなことも安定も命さえもなくしてしまった。
こんな皮肉なことが先輩に起きたことが悔しい。
こんな皮肉なことが私を含めて誰の身にも起こりうることが恐ろしい。


こういう時は上辺だけでなく心の底から、いつ終わってもいいような生き方とは何かを考えてしまう。

中国地方経済の強気

中国人の不安が生み落とした貿易黒字 - 紙の家の記録で書いたように中国の貿易黒字には減少傾向が見られる。
前回解説したように、中国の貿易黒字の原因は経済発展に取り残された地方にあった。
ならば貿易黒字の減少は地方経済に何かが起きている結果であると考えていたところ、以下の面白い記事を見つけた。
中国の有名な経済誌「財経」の記事を解説したものである。


梶ピエールの備忘録。
梶ピエールの備忘録。
梶ピエールの備忘録。


以上の梶氏の解説を読んでいただければ十分で、私ごとき浅学の身が付け加えるべき言葉は何もない。
ただ上を読んで先日の記事について若干補正したい。
現在の中国経済はバブルなのか? - 紙の家の記録で紹介したエコノミストの記事では、中国で不動産バブルが起きにくい根拠の一つに投資目的の住宅購入には40%もの頭金を払わないといけない厳しい規制を挙げていた。
だが今回リンクした記事のような粉飾が行われているのならば、バブルの危険はもう少し高く見積もる必要があるのかもしれない。


エコノミストでも、中国がバブル防止のために金融引き締めをするためには国際通貨制度を改革する必要があることを述べていた。(ドルペッグ制の下では自由に金融政策を行えないから。)
どうやら最近の議論の流れは通貨制度の改革の方へ流れているようだ。

中国の財政・金融のすばやい緩和策が全体としてみれば正しい反応であったことは疑いがない。しかし、それは中央政府がブレーキをかけることができないほどの地方の暴走を促しかねない、という副作用を伴ったものであり、それが今回の記事のような形で現れてきている、といえよう。
 さらに問題なのは、これまでのように為替の安定を図るための介入が外貨準備の持続的な拡大を通じて国内の過剰流動性をもたらす、という為替制度から生じる問題が資産バブルの懸念にさらに燃料を投下しかねないことだ。最近中国政府がが国際通貨制度の改革に積極的であるのも、このような危機感が背景にあると考えられる。

冲方丁「ストームブリングワールド」(☆☆☆)

カルドセプトというゲームの世界観を用いている冲方丁氏のファンタジー小説
2003年出版のストームブリングワールドを加筆修正した新装版が出たので読んでみた。


ところで私は最近の冲方氏の作品よりは初期の頃の氏の作品の方が好きである。
初期作品の改訂版である本書を読んで、その思いを強くした。
私はこの改訂版よりも旧版の方を支持する。


特に本書の終盤、新しく加えた設定は蛇足であった。
最期に新設定の謎解きと最終決戦が同時に行われることで、話の焦点がぶれているのだ。
旧版では敵との絶体絶命の危機に陥る戦いに集中して入り込めたが、今回は視点があちらこちらに移るせいで熱気が失せてしまった。


だが古典的なボーイミーツガール小説としてはとても良い作品なのでお薦めである。
また冲方氏のことを知らない方には、初期の氏の書いた傑作「ドラゴンクエストⅡ 任侠鉄砲玉伝説」を読んでみてもらいたい。氏の実力がよく分かるはずである。
もっとも現在の冲方氏はこの文章が恥ずかしくて消したいそうだが、私はその過去の冲方氏の方を残したいのである。


【ストーリー】
絵を描くのが好きな明るい笑顔の少年リェロンはエルロイ公国の跡継ぎであったが、ある日「黒のセプター」なる者たちに襲撃され国を滅ぼされ、父と姉の犠牲によりかろうじて逃げ延びる。
彼は何もできなかった自分を呪い、笑顔を捨て、絵を描くことを止める.


神殿の町の英雄が娘アーティは父親を尊敬していたが、父親の自分に対する態度はどこかよそよそしかった。彼女は父親に振り向いてもらいたいばかりに重大な嘘をつく。
父親に認められるために、彼女は自分の弱さと訣別することを決意して泣くことを自らに禁じた。
だが、その父親は任務に出かけたまま行方知れずとなってしまう。


それから数年後、リェロンは無表情かつ苛烈に敵を倒す有能な戦士になり、アーティはエリートの通う学園の優秀なリーダーとして人望を集めていた。
苛酷な戦場で生きる青年と平和な学園生活を送る少女。
無関係な世界に生きる彼らであったが、ある日リェロンはその平和な学園への潜入を命じられる。
黒のセプターがその神殿とアーティにも手を伸ばそうとしていたからであり、青年は彼女の護衛を本人にさえ秘密裏で行うことになる。


かくして青年と少女は出会い、襲い来る困難に立ち向かう中で互いが捨てたものをもう一度取り戻していく。


新版


旧版

山本一郎「ネットビジネスの終わり」(☆☆☆)

ネットビジネスの終わり (Voice select)

ネットビジネスの終わり (Voice select)


ネットで有名な投資家、切り込み隊長こと山本一郎氏の著作。
製造業、アニメ産業、新聞/雑誌メディアの抱える問題について指摘している。


製造業については「良い物を作れば売れる」と妄信し、末端の市場の要望を満たせない物作り信仰を批判。
また扱う商品が総合的になり過ぎて勝負する分野を絞りきれず、製品開発から市場開拓まで全てに遅れをとる大企業の体質も批判する。


アニメ産業については、国が未来の重要産業と煽るが、その実態は異常に安く買いたたかれる人件費に依存しないと存続できないような赤字体質の業界であることを指摘。
アニメに関わる者は上から下まで誰も得せず、誰かが搾取できるほどの余裕さえない状態であり、年に数本出るヒット作に依存している。
もし作るなら実写ドラマの方がはるかに安い制作費でより高い利益を得られる。
金銭的に狭い市場なので少数の人間が重要なポストを独占しており、若手は伸びる機会も得られず歳を重ねてしまう。
そして海外のマンガ/アニメ市場はとても小さい。
国や投資家の期待は過剰なものでしかない。


新聞と出版については、その八方ふさがりの状況を指摘。
欧米の新聞や雑誌は大手さえも次々と潰れている。日本も数年後には危ないだろう。
あらゆる適切な経営再建の努力や増資も効果を成さない凄惨な事態になっている。
webに力を入れれば逆に売上げが下がり、人件費や経費の削減も焼け石に水
結局惰性で新聞を購入している層をつなぎ止めるだけが一番良い売上げ維持の手段になってしまう。

人が求めるのは専門的な情報と芸能スポーツなどの娯楽情報。しかし専門的な情報では新聞は専門家集団に太刀打ちできず、娯楽情報はネットで無料で手に入ってしまう。
情報は無料で手に入るという考え方を変えさせないといけない。
金はかかるが信頼できる取材ができるメディアが消えてしまえば、後には安いがいい加減な取材でデタラメな記事を書くメディアばかりが残ってしまう。


製造業に属している私としては耳の痛い言葉も多かった。
だが下っ端として使われるに過ぎない身分としては、本書で指摘された問題に対してできることは何もない。
結局自分の技術を磨くという「もの作り信仰」教団の信者のようなことしかできない。
いざと言うときは海外の企業への転職も考えないといけないかもしれない。


ちなみに本書の一部はネットでも閲覧できる。

http://voiceplus-php.jp/web_serialization/information_business/001/index.html
http://voiceplus-php.jp/web_serialization/information_business/002/index.html

ニセモノはニセモノを知る

評論家の茂木健一郎氏(茂木氏は脳科学者ではないかですって?ハハハ、ご冗談を!)がhttp://www.gei-shin.co.jp/info/art1732.htmlにおいて松井冬子さんの絵を推薦したことを知った。
有名人に擦り寄り、流行りものを取り入れて自分の理論でいい加減な説明を加えるのが得意な茂木氏らしい選択だと思った。


茂木氏が認めた松井さんの絵。
ニセモノはニセモノを知るという言葉を思いついた。
松井さんの絵はニセモノと言うほど酷いわけではないが、ニセモノからニセモノの解説をつけられたせいで見られたものではなくなってしまった。


茂木氏の話は、どうでもいいお説教を自分の実証されていない仮説を根拠にして相手に押しつける類いのものでしかない。
科学を装った理屈をくっつけて内容無実な自分の愚痴をさも世界の真理のごとく吹聴している。
具体的にどう酷いかはhttp://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/cat14888603/index.htmlを参照していただきたい。
こちらの神経科学者の方が「似非脳科学者」と呼ぶ条件を茂木氏は見事に満たしている。

松井冬子さんの画集を購入し、後悔したことについて

人気がある画家と聞いて松井冬子さんの画集を購入した。


よくあることだが、人気がある作品を見もせずに軽蔑して遠ざけ、それを誉める人をバカにして、自分はマイナーな作品に入れ込み、自分だけは本物を知っていると陶酔する人がいる。
私はそんな態度をとることがないように自戒し、人気のあるものにはなるべく目を通すようにしている。
それで、その画集を見た感想であるが次の一言に尽きる。


買わなくてもいいものを、また買ってしまった。


松井さんの絵には内臓をむき出しにした死体の絵とかグロテスクな幽玄美の絵が多い。
そんな絵が若い女性に人気があり、その絵を見ると癒されるそうである。
高度な日本画の技術で、死体とか幽霊の奇抜な題材を描く。
面白いと言えば、面白い試みである。
だがそれらは画家の自己主張を託す題材としては、安易過ぎるのではないだろうか。


平和をテーマにした絵で鳩の絵を描いたり、
神秘をテーマにした絵で宇宙の絵を描いたり、
絶望を表わす絵で、キャンバスを黒く塗りつぶしたりするのと似たような陳腐さを感じる。


衝撃的な作品であることは確かだ。
しかし緻密な筆で死体とか幽霊を描けば衝撃的になるのは当たり前のことである。
例えば、内容のくだらない小説や三流ドラマでも家族や恋人の死ぬシーンでは泣けてくる。
死とかを調味料に加えれば、人の感情は簡単に刺激できる。
どんなマズイ料理でもワサビを大量に入れておけば涙腺が刺激されて泣けてくるのと同じことだ。
だが、それで料理の価値が高まることはない。


私の定義では「テーマ」を持つものが芸術である。
デュシャンが便器にサインしただけの物を芸術と呼べるのも、テーマがあるからである。
(その作品の良し悪しとは別に、芸術であるか否かを論じれば、それは私の芸術の定義を満たすので芸術と言える。)
そして表現されたテーマが心を捉えて離さないのが、美味な作品だ。
テーマのある落書きになら100万円でも払えるが、テーマのない落書きはシンナーで消すだけである。


さて松井さんのテーマは「痛み」だそうだ。特に女性の視点から見た痛みを扱っていると主張する。それについていろいろ語っているNHKの対談を見たこともある。
だが作品のテーマについて語れば、その作品が本当にそのテーマを持ってくれるわけではない。
子供が下手な落書きをして「この作品のテーマは怒りにも似た劣情です」とか言い出しても、その落書きが本当にそのテーマを持っていることにはならない。


私は松井さんの絵を見ても「痛み」を感じなかった。
松井さんが自分の絵について語った説明を思い出して、「痛み」がテーマなのだとようやく分かった。
そして改めて絵を見ても、そんなテーマを絵から汲み取ることはまるでできなかった。
まさか内臓や筋肉をむき出しにしていて、痛そうだから「痛み」を表現していることになるわけでもあるまい。
松井さんの絵は自分の解説に負けてしまっているように感じられる。
テーマを感じるか否かは個人の感性の問題なので、他人が松井さんの作品を芸術とみなすことに異を唱えるつもりはないが、飽くまでも私にとっては松井さんの絵はテーマある芸術ではない。


男社会で女性に生まれてしまったことの葛藤と困難への痛みをこの絵が表現しているとは思えない。
昔に私は斉藤美奈子さんの「モダンガール論」を読んで女性という生き方の困難さを知ったとき、強い「痛み」を覚えた。
自分がこんな痛みを現実に経験する必要のない男に生まれたことを感謝したほどだ。
松井さんの絵からはそのとき感じた痛みの片鱗さえも味わえなかった。

モダンガール論―女の子には出世の道が二つある

モダンガール論―女の子には出世の道が二つある


松井さんの作品が人気がある理由について私は以下を推測する。
それは、松井さんの絵がグロテスクなものに惹かれる感情を刺激する娯楽作品だからだ。
しかもグロを楽しむという悪趣味に対して、芸術鑑賞という上品な言い訳を与えてくれる。


この趣向はマニアックな大人のホラーファンだけのものではない。
子供にだって残虐な絵や物語を好む性質がある。
女子向けのホラーマンガ雑誌や「ねこぢる」の人気からそのことが伺える。
殺人鬼が暴れまわって、哀れな犠牲者が内臓をぶちまけて死んでいくようなマンガが沢山ある。
私はそれを読んで、当然のように「これは大人のマニアが面白がって読むマンガだな」と思う。
しかし本屋をのぞくと、まだ10歳程度の女の子がそれを熱心に読んでいたりするのだ。
そして雑誌のイラストコーナには子供のつたないタッチで描かれた残酷マンガのキャラクターの投稿ハガキが掲載されている。


私はいつの間にか「健全な子供は清く正しい情報のみを摂取するものだ」という偏見を抱いていたようだ。
私だって子供の頃、町の図書館で死産した奇形胎児のホルマリン漬け満載の医学書を見つけて、同級生十数人で回し読みをしていたではないか。
身近にありふれているはずなのに、目にすることを忌まれている死と血と臓物の世界を覗いて見たいという欲求はそう珍しいものではない。


松井さんの絵はそういう欲求を満たしてくれる。
だから見ていて楽しい。
しかしその楽しみ方は芸術作品としてのそれではなくて、娯楽作品としてのそれである。
松井さんの作品は私にとっては芸術品ではなく娯楽品である。


娯楽で何が悪いのか?少しも悪くはない。
だが娯楽としての内臓ならば、ホラーマンガのそれの方が娯楽としてより優れている。
ホラーマンガの秀作である「ゾンビ屋れい子」とかでも見ていればいいのだ。
悪趣味で低俗の極みと嫌われるダリオ・アルジェントゾンビ映画でもいい。
画集代の1万7000円があれば、そういう作品をいくらでも見ることができた。
私にとって松井さんの絵は費用対効果が悪いものだ。
だから私はその画集を購入して後悔したのである。

松井冬子 一 MATSUI FUYUKO I

松井冬子 一 MATSUI FUYUKO I

ゾンビ屋れい子 1 百合川サキ 編 (ホラーMコミック文庫)

ゾンビ屋れい子 1 百合川サキ 編 (ホラーMコミック文庫)

現在の中国経済はバブルなのか?

世界不況だというのに、中国経済は好調だ。
上海のA株指数は昨年の11月から60%も上昇し、住宅販売数は昨年の間で85%も増えている。
これを受けて、中国経済はバブルに突入したという見方をする人もいる。


しかし、エコノミスト誌(The Economist October 10th 2009 P75)によると、中国経済はまだバブルではないそうだ。
株価、住宅価格、投資効率についてそれがバブル的か否かを以下のように検証している。


まず株価が暴騰しているかについては簡単な数字の比較をする。
A株指数は2006–07年の収益率70倍に比べて、現在はまだ24倍に過ぎない。
だから、この程度ではまだまだバブルではないと結論づける。


次に住宅価格はバブルで第二のサブプライムローンを生むのかについては長めに解説をしている。
まず住宅価格が高いのは都市部だけで、昨年は国全体で住宅価格はわずか2%しか増えていない点が指摘される。
さらに住宅所有者は住宅市場が民営化された十年前に国の補助を受けて数分の一しか住宅価格を払っていないこともあるので、見かけの数字通りの価格を鵜呑みにはできないとする。


更に中国人は住宅ローンには依存していないことが重要だと強調する。
中産階級の四分の一程度しか住宅ローンを利用しておらず、利用していたとしても住宅価格に占めるローンの割合はアメリカ人が76%なのに対して、中国人は46%しかない。だから住宅価格の急な落ち込みに対しても先のアメリカのように大騒ぎすることがない。
それに中国で住宅を購入する際は、頭金に価格の20%を支払わないといけない。投資目的での購入なら更に高い40%の頭金が必要になる。だから住宅投資をするにはかなりの量の現金を用意しないといけないので、過剰投資にブレーキがかかるわけだ。


また中国は財政刺激の効果が薄まった場合に備えて、住宅建設に関わる需要で国の経済を支えるつもりなのだと解説する。
建設は雇用を生み、民間投資を活発にし、新しい住宅に必要な家具や家電製品も売れる。
事実最近は建設が増えて、民間投資が昨年の8月から30%も増加している。昨年12月の成長率の2倍にもなる数字だ。


最期に、昨今の中国に対する限度を超えた過剰投資が資本の収益を縮小させ、成長が鈍化するという指摘にも答えている。
まず生産を1生み出すために必要な投資を意味する限界資本係数、IOCR(前回までに紹介した必要投資率と同じもの)はここ30年低い数値を示している。
つまりこれは投資が効率よく生産に回されていることを意味し、中国経済が過剰な投資にさらされているとは言えない状況にあるとする。


確かに今年は投資が急増している一方で景気後退で成長率が下がっているのでIOCRは急上昇するが、それを言うならGDPが下降しているアメリカのIOCRは無限大になる。
不景気の年のIOCRだけを取り出しても無意味な数値を示すというわけだ。


以上のように現在の中国の好景気には不気味なくらいに死角が見えない。
ただ問題があるとすれば、もし中国が将来のバブルを防ぐために金利を高くしたいと望んでも、アメリカの金利は当分の間低いままなので中国は金利を上げることができないということだろう。
何故なら固定相場制に近い制度を採用している中国では、中国の金利アメリカの金利に連動して動く必要があり、自由な金融政策ができないからである。
これはマクロ経済学の基本的な法則の帰結なのだが、その解説はまた後日に行いたい。


この問題は自国の命運を他国の中央銀行に預けているのと同じことなので、自立した大国としては面白くない話である。
いずれ中国は人民元を変動為替にしないといけないだろう。
前回までの人民元は過小評価されていないので切り上げの必要はないという考えと矛盾していると思う人もいるかもしれない。

私自身が何を最良なのか結論付けていない状況なので、考察過程で矛盾した結果が次々出てくるのはご容赦いただきたい。
だが長期的には、いずれ必ず変動為替制度を採用することになるのは確実なことである。


【追記】
今回紹介した記事が日本語に訳されているのを見つけた。
以下を読みさえすれば私のつたない要約を見る必要はないのである。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1928